張禧嬪(チャン・ヒビン

 

 2002年100話 

   






□愛欲と婦性という女性の二つの本質にそれぞれ極端に忠実だったチャン・ヒビンと
仁顕王后、そして人間的な情理と王の役目の間で悩む肅宗の物語。
□演出/イ・ヨングク ハン・チョルギュン  □脚本/カン・テワン
□キャスト/
キム・ヘス…張禧嬪(チャン・ヒビン)
チョン・グァンニョル…粛宗(スクジョン)
パク・ソニョン…仁顕王后
パク・イェジン…淑嬪チェ氏
チョ・ヨジョン…貴人キム氏
パク・ヨンジ…チェ・サンアン
チョン・ソンモ…チャン・ヒジェ
ユ・インチョン…東平君
ハ・ユミ…スクチョン
イ・ボヒ…ユン氏(張禧嬪の母)
キム・ヨンエ…明聖王后
カン・プジャ…荘烈王后
キム・ヨンラン…淑安公主
チェ・サンフン…ナム・グマン
ハン・インス…ミン・アム
シン・ドンフン…ミン・ジョンド
ユ・スンボン…キム・ドクウォン
キム・ウルドン…クォン尚宮
ソン・イルグク…キム・チュンテク
キム・ミョンス…ミン・ジヌ
パク・サンジョ…モク・ネソン
イ・ゲヨン…モク・チャンミョン
イ・シンジェ…クォン・デウン
イ・スンジェ…ソン・シヨル
チョン・インテク…キム・ソクチュ
ソン・ジェホ…ミン・ユジュン
イ・ヨンフ…キム・スハン
シン・チュンシク…キム・マンジュン
ぺク・ユンシク…チョ・サソク
キム・ハクチョル…ミン・ジャンド
キム・ガヨン…チャギョン
チェ・ウンギョ…パク・ドゥギョン
クァク・ジョンウク…世子キュン
パク・チミ…世子嬪シム氏
オム・ユシン…東平君の母
イ・ミノ…ヨンイン君
ハ・ダソム
張禧嬪(チャン・ヒビン)は鄭蘭貞(チョン ナンジョン)、張緑樹(チャン・ノクス)と並び、朝鮮の"三大毒女"と言われている

愛欲と婦性という女性の二つの本質にそれぞれ極端に忠実だったチャン・ヒビンとイニョンワンフ(仁顕王后)、そして人間的な情理と王の役目の間で悩むスクジョン(肅宗)の物語だ。彼らは朝鮮の歴史上一番党争が熾烈だった時期の国王と国母として、あるいは男と女として、あるいは政敵として生きた。
三度の換局を通じて世の中の最高の地位から一番下の地位に落ちる経験を繰り返し、波乱万丈の生を経験した限りない悲劇の主人公だ。英・正祖の文芸復興期は決してそのままでは得られなかった。国家復興の基本になる政治の安定のために、とても人としては見えにくい決断と非情さを行使した肅宗がいたから可能な事だった。しかし惜しくも肅宗の存在は今まで歴史の中に埋もれていて、また二人の女性の中に隠されていた。政争の終末を祈るために彼が投げなければならなかった矢は、胸をえぐるような裏切りとさびしさとしてイニョンワンフとチャン・ヒビン、そして息子ユンに行ってささり、その傷のみを抱えても彼らの生は充分に手に余った。
そして、極大化した興味と劇的要素たちが競争力を付与した物語を新しい視覚で追跡して21世紀の新しい女性像を提示し、君王だから人間的な情理をあきらめなければならなかった一人の男の運命的な生を通じて社会の中での人間の役目と道理を照らすことで、公営性と競争力を同時に取り揃えた歴史ドラマとして再誕生させて、時代に歩調をあわせた歴史の再照明という任務を終えるための一部を担当する。

■登場人物紹介

チャン・ヒビン(張禧嬪)(1662-1701)
-名前 オクジョン。父親はチャンヒョン、母親はチャンヒョンの後妻ユン氏。長安最高の金持ちであり歴官である叔父チャンヒョンの家で裕福に成長したが、家門の没落と共に宮女として入宮、苦労のあげく肅宗の寵愛を受ける。ずば抜けた美貌と抜け目のなさでの愛を独り占めして王子ユン(後のキョンジョン(景宗)を生んだ後ヒビンに位階を賜り、絶え間ない策略でイニョン王后をおとしめて国母の地位にまで昇る欲望の女性。肅宗に対する独占欲と身分上昇への執着が病的な位に度が外れ、息子であるユン太子を酷くせきたてる非情な母親だった。度が外れた嫉妬と屈した性格で肅宗の寵愛を失い、登板5年ぶりに中宮殿をまたイニョン王后に渡してヒビンに降等される。
スクジョン (肅宗) (1661-1720)
-朝鮮第19代王。ヒョンジョン(顕宗)とミョンソン王后キム氏の間に生まれた一人息子。ずば抜けた頭脳と決断力で政争を適切に利用することで3回の換局を通じて力強い王権を駆逐して行った王だ。せっかちで疑心が強くて誰も信じず、王権に挑戦することには常に冷情できっぱりと対処した。一人の男としてチャン・オクジョンを愛して王妃ミン氏を廃位してオクジョンを中宮殿の地位に乗せるが、彼女と南人の勢力が王権にとって脅威になるに至ると、南人たちを追い出してオクジョンを廃位、結局死薬を飲ませて殺す冷情な面貌を見せる。大同法施行と常平通宝通用・国防力強化など、壬辰の乱以後未決状態で足踏みしてきた社会全般の整備事業を大部分片付けながら相当な政治功績を残す。
イニョンワンフ(仁顕王后)ミン氏(1667-1701)
-ミン・ユジュンの娘。1681年(肅宗7)、キム・ソンジュとソン・シヨルの推薦を受けて15歳の年でスンジョンの後妻になる。厳格な家風を受け継いで女としての幸福よりは国母としての役目まっとうしようとし、大王大妃チョ氏と大妃キム氏に誠心誠意仕えたのみならず真っ直ぐな気質と温厚さで、王室はもちろん全臣民に尊敬される。しかし男の心を読んで魅惑するチャン・ヒビンとは違い、おとなしく病弱で受胎することができなくて肅宗の愛を得ることができない。


チョン・グァニョル/出演作品
KBS『仮面の中の天使』 、KBS『智異山』、SBS『愛・共感』 、SBS『青春の罠』、SBS『モデル』 、 MBC『朱蒙』 、 MBC『イヴのすべて』 、 MBC『ホジュン』 、MBC『バラと豆モヤシ』

キム・ヘス出演作品/

KBS『若いケヤキ』 、KBS『スンシミ』 、KBS『花咲いて鳥鳴けば』 、KBS『真夏の夜の夢』 、KBS『おもしろい世の中』 、MBC『一つ屋根の3家族』 、MBC『ベスト劇場誰かを愛そうとする理由』 、MBC『パイロット』 、MBC『りんごの花の香り』 、SBS『ミス & ミスター』 、MBC『愛の群像(私達は本当に愛したのだろうか) 』 、MBC『グッキ』 、MBC『黄金時代』 、MBC『漢江水打令』 、


パク・ソニョン出演作品/
KBS『伝説の故郷-蝶々の恨』、KBS『情のために』 、
KBS『白いタンポポ』、 KBS『可愛い彼女』 、 KBS『オー!必勝ポン・スニョン』、KBS18歳、29歳』 、 KBS『悲しみよ、さようなら』 、 MBC『明日に向かって撃て』 、 MBC『毎日幸せ』 、 MBC『熱いのがお好き』 、 MBC『母よ、姉よ』 、 MBC『真実』 、 SBS『華麗なる時代』 、

粛宗 (朝鮮王)

李氏朝鮮 第19代 国王 姓名 李?
字 明普(ミョンボ、??)

廟号 粛宗
諡号 顕義光倫睿聖英烈裕謨永運洪仁峻徳配天合道啓休篤慶正中協極神毅大勲章文憲武敬明元孝大王
在位年 1674年-1720年
生没年 1661年-1720年
父 顕宗
母 明聖王后
英語表記 Sukjong

日本語読み しゅくそう
カタカナ転写 スクチョン
肅宗(スクチョン、しゅくそう、1661年 - 1720年)は、李氏朝鮮の第19代国王(在位:1674年 - 1720年)。諱は?。字は明普(ミョンボ、??)。諡号は顕義光倫睿聖英烈裕謨永運洪仁峻徳配天合道啓休篤慶正中協極神毅大勲章文憲武敬明元孝大王。

第18代国王顕宗の第1王子。母は明聖王后金氏。妃は仁敬王后(金万基の娘)、仁顕王后(閔維重の娘)、仁元王后(金柱臣の娘)。子女に景宗、英祖など。


1661年8月15日に生まれ、1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位する。垂簾聴政を受けず、直接国を統治した。

粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮が建国以来党争が一番ひどかった時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年代には西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。そしてある党派が違う党派を完全に追い出して一党による政治、換局政治が主たる現象となった。

粛宗の治世はさまざまな政治論争で一日も静かな日はなかった。仁顕王后を中心にする西人と張禧嬪を中心にする南人が対立した。仁顕王后が結婚してから6年以上子供を生むことができなかったので、後宮である張禧嬪が生んだ王子を王世子に冊封する問題で、南人と西人がひどく対立した。結局西人が流配されたり殺されたりして、仁顕王后が廃位される己巳換局が起きた。この事件で張禧嬪は王妃となり、彼女の息子は王世子に冊封され、南人が政権を独占するようになった。しかし南人政権の期間も長続きせず、甲戌換局で反転された。その頃粛宗は張禧嬪に対して良くない感情をいだくようになり、仁顕王后を廃位させたことを後悔していた。粛宗は仁顕王后復位を計画した西人たちを監獄に閉じこめた南人たちを追い出して、張禧嬪を嬪に降等させた。そうして仁顕王后は王妃に復位し、仁顕王后を呪った張禧嬪は処刑された。

しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。

粛宗はさまざまな党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い朋党の力を弱化させるために、政権党を入れ替える「換局」を3度行った。そのために粛宗の治世を“換局政治”と称することもある。粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。

粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。そして文禄・慶長の役と丙子胡乱以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残した。

また清と国境紛争が起きると、交渉して1712年咸鏡道観察使李善溥に白頭山山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。そして日本に派遣した通信使に幕府と交渉させ、日本人の竹島への立ち入り禁止を保障させた(竹島一件)。また朝鮮通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を定めることで倭館貿易を整備させた。その他にも王位を奪われて亡くなった魯山君を復位させて端宗という諡号を贈ると同時に死六臣の名誉も回復させ、廃庶人となった昭顕世子嬪姜氏を愍懐嬪に復位させた。

しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。

1720年60歳で崩御。御陵は西五陵の一つ、明陵。